1979年、アフガニスタンに旧ソビエト連邦軍が侵攻。全土で抵抗運動が巻き起こり、ゲリラを組織した兵士たちは、ムジャヒディンと呼ばれた。田中光四郎は彼らを助けるためにアフガンへ向かい、武術を教えながら、ゲリラとともに圧倒的な武力を持つソ連軍を相手に戦った。そんな彼を世界のジャーナリストたちは「アフガンのサムライ」と呼び、讃えた。 以来数十年、休む事無く自らの武術を研鑽し、鍛錬の日々を続けて来た田中光四郎は、自らの武術に日子流と名付けた。故郷である福岡県田川市にある英彦山(ひこさん)にちなみ、日本古来の文化である日本魂(やまとだましい)と武道の、心と技を後世に伝え残すこと。その願いが込められた名称である。 武術の本質は護身である。最後まで自分の身を守り通すことは、敵を倒すことと同義である。そして、攻撃こそ最大の防御という言葉もまた真実である。 [収録内容]
1979年、アフガニスタンに旧ソビエト連邦軍が侵攻。全土で抵抗運動が巻き起こり、ゲリラを組織した兵士たちは、ムジャヒディンと呼ばれた。田中光四郎は彼らを助けるためにアフガンへ向かい、武術を教えながら、ゲリラとともに圧倒的な武力を持つソ連軍を相手に戦った。そんな彼を世界のジャーナリストたちは「アフガンのサムライ」と呼び、讃えた。 以来数十年、休む事無く自らの武術を研鑽し、鍛錬の日々を続けて来た田中光四郎は、自らの武術に日子流と名付けた。故郷である福岡県田川市にある英彦山(ひこさん)にちなみ、日本古来の文化である日本魂(やまとだましい)と武道の、心と技を後世に伝え残すこと。その願いが込められた名称である。 武術の本質は護身である。最後まで自分の身を守り通すことは、敵を倒すことと同義である。そして、攻撃こそ最大の防御という言葉もまた真実である。
当身 Atemi 掌底/一本拳/手刀/裏拳/体当たり/頭突き/蹴り/膝 手捕り Te Dori 手首固め/手首固め(京門打ち)/襟/抱/突き/蹴り/肘固め/ 首固め/絞め/落とし/振り/押さえ 棍 Kon 短刀捕り Tanto Dori [映像特典] 田中光四郎インタビュー Interview
当身 Atemi 掌底/一本拳/手刀/裏拳/体当たり/頭突き/蹴り/膝 手捕り Te Dori 手首固め/手首固め(京門打ち)/襟/抱/突き/蹴り/肘固め/ 首固め/絞め/落とし/振り/押さえ 棍 Kon 短刀捕り Tanto Dori
[映像特典] 田中光四郎インタビュー Interview
田中 光四郎 (たなか こうしろう) 1940年福岡県田川市に生まれる。幼少時より武道に親しみ、柔道・剣道に始まり、空手(和道流・極真会館)、中国武術形意拳等を学びそれら武道体験をベースとして、当て身・逆・投げ・絞め技などを総合した体術を編み出す。 1980年、旧ソ連のアフガニスタン侵攻に義憤を感じ、単身、義勇軍としてアフガン・ゲリラに参加、最前線に出て戦い、同時にアフガンの兵士たちに武道を教える。 戦場で白い空手着姿で武道を教えている氏の姿は世界のジャーナリストの注目を集め、”アフガンのサムライ”と畏敬を込めて報道されている。 その後、広島で開催されたアジア大会に参加不能と思われていたアフガニスタンの大会参加のため孤軍奮闘して参加実現に尽力し、入場行進するアフガニスタン選手団の中に氏の姿があった。 1991年、初代不二流体術宗家である故・古賀不二人先生より二代目を譲られ、以後、実戦武術としての意気を失わない古武道としての不二流の普及発展に力を注ぎ、ミャンマーやタイ、ヨーロッパ各国へも指導に赴いている。 「著作」 『田中光四郎・不二流体術』 『(ビデオ)必殺の古武道体術入門編』 『(ビデオ)田中光四郎・不二流体術基本編』 『(DVD)田中光四郎・不二流体術』